ざら紙の裏面

140字じゃ足りなかった

鶴丸国永は「人を生きる刀剣男士」だと思う

※歴史に関するゆるい解釈を含みます。
※伊達組の内番会話について触れています(具体的なネタバレはありません)
 
鶴丸国永は不思議な刀剣男士だ。
平安生まれの落ち着きと達観した物腰、
かと思いきや返り血を浴びて楽しそうに敵を斬る、
と思えば子供のように畑ではしゃいでみたりする。
 
彼の見せる軽妙で酔狂なひととなりを、本当に丸ごと信じてしまっていいんだろうか?
彼は、笑顔の裏に、何かとんでもない闇を隠し持っているのでは?
私は、彼のことが、よくわからなくなる。
 
だから、勉強の合間に真面目に考えてみた。
そして気がついた。
彼は、きっと、(審神者も含めて)本丸で一番「人間らしい」刀なのだ。
 
……と、私がそう思った理由をつらつら書いてみました。
鶴丸さんが好きって気持ちだけで書きました。
のんびり読んでもらえたら嬉しいです。
 

鶴丸が求める驚きとは

 
鶴丸はよく「驚き」という言葉を口にする。
ここが人によって解釈が分かれるところだと思うのだけれど、「驚き」というのが例えば「落とし穴」「後ろから驚かす」に代表される、いわゆる「びっくり系」の驚きなのか。
それとも、「人の身体は面白い」とかいう、「知的好奇心」から来る驚きなのか。
今までTwitterなどで議論されているのを何回も見てきたけれど、この2パターンは全く違うように見えて、実は通じるところがあると思う。
 
 

「退屈」と「驚き」

 
鶴丸は、退屈を嫌う刀だ。
けれど、何も起きない平和な日々だけが「退屈」なのではない。
ひたすら人間の敷いたレールの上に乗り続けるだけの毎日が、鶴丸にとって「退屈」だったのではないかと思う。
 
人間の都合であちこち振り回されても、「道具」として、それを受け入れるしか無かった彼の気持ちはどんなものだったんだろう。
亡くなった主と共に墓に入れられ、欲望のままに取り出され、藤森神社へ、伊達家へ、巡り巡って御文庫へと渡り歩いたのは、全て人間の意思によるものだった。
そこに、鶴丸自身の意思は関わりようがなかった。人の使う道具として、物言わぬ一振りの刀として、彼は人間に従うしかなかった。
その中で、大切な主との別れを強いられたこともあっただろう。
自分の想いとは関係なく、何百年も他人の都合で振り回される気持ちは想像を絶する。
 
予想し得る出来事ばかりでは――退屈では、「心が死んでしまう」と鶴丸は言う。
たぶん実際に、心が死んでしまったことがあったのだろう。
人間に求められ、その意のままに各地を転々とする刃生を、彼は何とかして受け入れなければならなかった。
そうして、自分の意のままにならないどうしようもない刃生を、「驚き」という言葉で全て諦めてしまったのではないか?
 
墓を勝手に暴かれて取り出された。
驚きだ。
 
神社から盗み出された。
驚きだ。
 
こんなふうに、あらゆる出来事を「驚き」と考えれば、そこから先の落胆とか失望なんかは考えなくて済む。
鶴丸は「驚き」という言葉で以て、人に求められ続ける自らの刃生に折り合いを付けようとしたのではないか、と思う。
 
 

人の体でできること

 
では、本丸での彼はどうしてあんなに生き生きしているのだろう?
突然「わっ!」と驚かしてみたり(直後に謝るけれど)、
畑当番も馬当番も、特に嫌がるでもなくやってくれるし、しかもちょっと楽しんでるし、
伊達の刀たちとの内番会話とか、もう全力で面白がってますよね。
えらいことになってる。主に畑が。
 
それはもう、彼が平安時代の刀だということを忘れそうになるくらい。
時々脇差や短刀たちと同じように見えることさえある。
 
まるで、「自分にできることを探すのが嬉しくてたまらない」子供みたいだ。
 
人間の意思に従い続けて、今日まで生きてきた鶴丸。
自分がああしたい、こうしたい、と思っても実現なんてできなかった。
 
それがどうだろう。本丸に顕現されて、自分の意思で自由に動く体を手に入れて、好きに行動できるようになった。
戦場を踊るように駆け回ることも、自身を振るって敵を斬ることもできる。
命を奪ったのと同じ手で、土に触れて、命を育てることができる。
自分の言葉で会話ができるし、喧嘩だってやろうと思えばできる。
 
彼は「驚き」という言葉で、自らの刃生を諦めたのかもしれない。
でも、少なくとも本丸で過ごす彼は、自らの刃生を諦めてなどいない。
 
何百年と生きてきた自分の刃生のひとつの時間として、彼は、本丸での時間を精一杯楽しもうとしているのではないか?
 
彼が求める驚きが「びっくり」にしろ、「好奇心」にしろ、根っこは「人の身体を楽しみたい」という純粋な想いなのではないだろうか。
 
 

鶴丸は「終わり」を知っている

 
鶴丸は本丸での今をめいっぱい楽しみながら、同時に「終わり」を見つめているように見える。
彼は、予想できないタイミングで「人間の都合」が動くことを知っているからだ。
今自分が過ごす本丸だって、歴史修正主義者との戦いが終われば、おそらく無くなってしまう。そうなれば、再びただの刀に戻って長い時を過ごすことになる。
 
鶴丸は、今この瞬間を生きることの尊さを、身をもって知っている。
 
「今日はどんな驚きが待ち受けているかな?」
彼にとって本丸での毎日は、日々新たな発見に満ちたものなのだと思う。
そしてその日々には、いつか必ず終わりが来ることもわかっている。
明日に絶対なんてものはない。同じ今日は二度とやって来ない。
だから彼は、自分の意思で、今日も「驚き」を求めて駆け回る。
 
私達にとって見慣れた現世の風景も、鶴丸の瞳を通して見れば、がらりと色を変えるにちがいない。
そういう意味で彼は、鶴丸国永は、たぶん私達人間よりも、「人」を生きている。
 
 
(今回の記事で、初めて「ですます調」じゃない文章を書いてみました。たまにはこんな書き方もいいなあと思いました)