ざら紙の裏面

140字じゃ足りなかった

山姥切国広という刀剣男士

今週のお題「私の沼」


これまでもいくつか沼にハマってきたけれども、今の沼は山姥切国広さん、でしょう。


彼の御姿、声はもちろんのこと、やっぱり大好きなのはその気質です。

名刀・山姥切の「写し」として、常に比較の目にさらされてきたことによる、卑屈な言動。

けれども、根っこには「国広の第一の傑作」としてのプライドがしっかりとあります。

彼自身が「写しとしての自分」と、「国広作としての自分」との間で悩み、もがいている、その姿に心打たれずにはいられません。

つらい。


彼について何度も何度も考えるうち、解釈も少しずつ変わってきているのですが、今は『「国広の傑作であるという自信」を持つ自信』が持てない方なのかな、と思っています。

誉を取るたびに「俺は、俺だ」と噛み締めるように口にする。かと思えば、「ぼろぼろになっていれば、俺を比較するやつなんていなくなる」と言ってみたりする。

戦で成果をあげられた時、うまく行かなかった時、と精神的に揺れているのかな(現実的にはゲームシステムの問題)。


彼は自分自身を卑下し続けているように見えて、実は嫌がっているのは「比較されること」なんじゃないかな、みたいな。

自分に自信が持てないわけではない。まして、自分のことが嫌いでは、決してないと思うんです。


それなら「自分は国広の傑作だ」と、堂々としていればいい。なのにそれができない。なぜか。

理由は、彼がずっと比較され続けてきたから、に他ならないと思います。


きっと周りの目なんて気にせずに自分らしく生きろ、ということに納得できないくらいには、彼は山姥切と、もしかしたら別の刀とも、比較され続けてきたのでしょう。

彼が打たれてから今日まで、もう何百年も経っています。


例えばこれがソハヤノツルキさんのように、天下人に大切にされ華々しい刃生であったなら、「生きた証を残す」という方向に考えられたのかもしれません。

残念ながら長尾顕長さんは、山姥切国広さんが完成してから数ヶ月後に、小田原征伐にて没落していた(はず)。

それからは、色々な侍さんのもとへ、時には質屋に売り飛ばされたりもしながら、今日まで生きてこられた方でした。

なかなか落ち着かない刃生だったから、今の所有者様の元で、きっと幸せに眠れているんじゃないかなあ。本当に、感謝の念が尽きません。


これから先、彼が「国広の傑作」として本当に堂々と胸を張ることは、おそらく彼一人ではできないでしょう。

今まで周りの視線、言い換えれば「評価」に縛られ続けてきた彼だから。

「山姥切国広は、国広の第一の傑作で、かけがえのない一振りなんだよ」と、「評価」してくれる誰かが、彼には必要なのだと思います。

それは、本丸の仲間たちかもしれないし、審神者かもしれない。もっと別の誰か、何か、かもしれない。

だけど私は、彼がいつか心から「自分は国広傑作で、かけがえのない一振りだ」と思える日が来ることを願いたいです。

誇り高い彼に、幸せになってほしい。

だから私は、これからも彼が「かけがえのない一振り」であることを言い続けたいと思います。



大好きな初期刀兼総隊長の山姥切国広さんに敬意を表して。


※歴史についてはあまり詳しくないので、間違っていることを言っていたらすみません。もし訂正していただければ、修正いたします。